#3では「矛盾」について書こうと思います。
生きていると多くの「矛盾」と出会います。
皆さんは「矛盾」を感じる事は多いでしょうか?
同じ「矛盾」と言っても、感覚的に感じる「矛盾」と思考的に感じる「矛盾」があると思います。
感覚的な「矛盾」は別の言葉で言うと「違和感」と言うのかもしれません。
私は比較的思考に頼る傾向があります。
周りから理屈っぽいと言われることも多いのがその証拠でしょう。
しかし、思考し理屈っぽくなるきっかけは、感覚的な違和感を多く感じて生きているからだと考えます。
その「違和感」は何故出たのかを思考し、理由を探してしまうから理屈っぽいのだと思います。
さて、今回書こうと思う「矛盾」は周りに対して感じる「矛盾」ではなく、自分自身の「考え」や「意識」そして「行動」に感じる「矛盾」についてです。
最近よく考えることをいくつか上げて行こうと思います。
1.自身の死についての考えと他者の死についてと私の仕事
私自身は自分自身が死ぬことについては全くもって不快な感覚はありません。いつ、どうやって死にたいかも特に考えなくなりました。
寿命の蝋燭でも観ることが出来るなら少しは考えるかもしれませんが、観ることは出来ませんしね…
私はライフワークの様に仕事で労働安全の啓蒙や技術講習会等をしています。何故か自分の周りにいる他者が死ぬことについては非常に大きい不快を感じるのです。
これは大きな矛盾です。
自分はいつ死んでもいいのに、他者には死んで欲しくない。
何故このように思うのでしょうか?
色々考えを巡らせましたが、私自身は「死」と言う事象そのものには不快な感覚がないことは分かりました。これは自分の死であっても他人の死であっても同様で、死ぬこと自体は当たり前の事であると思っているからだと思います。
では何故他者の「死」が不快なのか?
それは「死」という事象が、その後に及ぼす影響に対して多大な不快を感じているのだと考えました。
つまり残された人達に及ぼす負の影響が不快なのだと思います。
私自身の死は私が終わるので、上記を感じる事はない事象としてとらえてます。まさしく死んで終わるのです。
しかし、私の周りにいる他者の死は私にとっては終わりではないのです。
一概に他者といっても色々いると思います。
親、兄弟、祖父母、親戚、配偶者やパートナー、子供、友達、同僚、上司、後輩、仕事の知人、見知らぬ他人…
改めて思い返すと、祖父母が天寿を全うしたであろう「死」には不快感はありませんでした。これは理屈的に考えると、残された人達に及ぼす影響が少なかったのだと思います。
※中にはそうでない方もいるとは思いますが…
私が労働安全などに執着して活動しているのは、労働災害が及ぼす「死」は残された人達にとても大きな負の影響を及ぼすと心の内で確信しているからだと思います。
例えば「飲酒運転による無慈悲な事故」や「常軌を逸した通り魔殺人」、「無差別テロ」などの被害者遺族は、その事故や事件に呪われるようにその後の長きに渡る人生を奪われていると報道等からは感じ取れます。
労働災害も、前述の極端な事故や事件と同様に、遺族や周囲の方達に多くの不快感を残す結果となっているのではないのかと…?
労働における人の「死」には色々なケースがあります。
人が行う所行ですから、当事者本人のミスやエラーで死亡する場合もありますが、多くの事故は管理者の考え方や管理方法、指揮監督者の指揮監督不足、不適切な労働環境が誘因となっているのではと私は推測しています。
仮に私の子供が、労働災害で亡くなり、原因として会社の管理不行き届きが明確な場合、私のその後の人生を賭して、経営者等の関係者を追い詰めていくと思います。
これの考えは私だけでしょうか?多くの方が同様の考えだとしたら本当に不幸の連鎖が起こってしまうと…
だから私は自分の「死」には不快がないにも関わらず、他者の不慮の死を減らすべく活動しているのだという考えに至りました。
ここ数年この活動を続けて来ましたが、昨今は私と私の周囲との間で「矛盾」「違和感」を感じる事も多く、改めてこの点については整理して行かなくてはならないと思っています。
次回もこの続きをで別に感じる「矛盾」を書きたいと思います。