カテゴリー
Uncategorized

そもそも俺はだれ?第4話

高所作業研究室のKENです。

ここまで、過去の恥さらしも含めとりあえず、自分の記憶をたどって書いてきました。

人間とは不思議なもので、良いことも悪いことも自分の都合のいいように記憶を改ざんしている可能性はあります。

これは自分自身のことでもですよ!

と言うことは、人から聞いた話しやネットで得た情報などはより顕著に記憶の改ざんが起きていると思います。

あなたは、『ある人』の噂を人から聞いて、会ったこともないのに嫌いになったことはありませんか?

書き出す前に皆さんに聞きます。

あなたにとって『事実』、『真実』とはなんでしょうか?

あなたは『主観』と『客観』、どちらのウエイトが大きいですか?

と言う前振りをして、前回の続きを書いていきます。

前回最後に書いた通り、私は会社4期目に入り、自身にとっては『波』と思える出来事がやって来ました。

より深くIRATAについて学びたい、自身でトレーニング出来る環境を作りたいと思っているタイミングでした。

IRATAに関わって来て約5年が経過していましたが、私の疑問や質問に対してまともに答えを持っている人は身の回りにはいませんでした。

『口ばっかりの人』や『知識もないのに騒いでる人』。『実務経験もないのに偉そうな人』。『秘密主義な人』。様々ですね。

公の資格なのに不思議な現象だと思っていたのですが、自身が深く関わるようになって気付いたのは、私が関わって来た人のほとんどは『何も知らないのに、何も知らないことに気づいていない人』達ばかりだったことです。

私を取り巻く人達の多くは『先生』、『師匠』、『神』と呼び浸水していたように思えます。尊敬の念を持って接する事はとても大事な事だと思いますが、自分より少し前を走っている人を疑うこともなく崇めることに私は大きな違和感があり反発していたのかも知れません。

そんな中、Aさんは私にとっては、すべての答えを持っている人でした。

そんな人と一緒に仕事が出来る可能性は私にとってはとても魅力があったのは事実です。

不動産探しを契機に、Aさんとの距離感が縮まったことは正直チャンスだと思い、意図的に周辺に多くを語らず動いていました。

結果、不動産が見つかり一気に物事が動き始めた事に私は身を任せて、すべて自己判断として進めました。

これがまずかった~。ネゴシエーション不足っすね~。

Aさんの周辺を取り巻く人間関係の輪からとんでもなく大きなバッシングを受ける事になってしました~W

『裏切り者』、『あいつはいいとこ取りする気だ』、『誰にも相談せずに勝手にやりやがって』などと言われていたのではないでしょうか?

直接言いに来る人はあまりいないので、多くは想像の域ですがW

結果、私とAさんで立ち上げた施設には古い仲間は誰も立ち寄ることもなく、『あの施設に行ったら縁を切る』と言われた人もいたようです。

私の悪い評判は瞬く間に拡がって行きましたね~。

とにかく会ったことも無い人に嫌われていたり、もともとの知り合いに遠ざけられたりと色々ありました。

この出来事で反省すべきことはありました。

しかし、あくまでビジネスチャンス、加えて自身の抱える課題の突破の為のチャレンジとして関係者に相談せずに決断したことについては後悔はありません。

いま思うと、狭い輪の中でして、皆の顔色を気にしながらやりたいことを進める事に違和感があったのだと思います。

この出来事を気に数年間ある意味周りの声を気にせず、自分の学びたいことに集中して時間をさけたのだと感じています。

Aさんと仕事を始めて3年ほどはとにかくインストラクターになるためトレーナーとしての基礎を学ぶこと、今まで疑問に思っていたことの解消に努める時間でした。

そんな中、とあることをきっかけに安全作業に対し、潔癖症になっていくこととなります。

とある”ロープ作業中の死亡事故”が身近で起こったことがきっかけです。

うちの会社に手伝いに来てもらっている外注さんの知り合い(30代半ばの方)がマンションの11Fからロープ作業中に転落して亡くなってしまったという事故です。

本当に悲しい事故です。

この事故をきっかけに、私は講習中にスライドで見せている年間死亡事故人数●●人が数字ではなく、『ひと』になってしまったのです。

いままではただの数字でした。特に顔は見えない…毎年同じような数字…。

これをきっかけに不安全な作業をしている人やさせている会社などを敵視して行く事になっていきます。

正直、『死にたいなら死ねば』、『社長がそのレベルの知識なら死亡事故は殺人だな』とすら思っていました。

上記のきっかけになった死亡事故の作業員の方が勤めている会社の社長にお会いする機会がその後ありましたが、信じられないくらいの罵声を浴びせてしまいました。

この時は自分にとっては”善”だったのだと思いますが、本当に失礼な事をしました。その社長さんも当該事故で相当苦しまれたはずなのに…その気持ちに何一つ寄り添うことも出来ず、私が出来る協力もすべて放棄する対応だったと後悔しています。

“善”と”悪”は本当に難しい。視野の狭さが招いた結果だと思いますが恐怖します。

こうして、しばらく潔癖症が続き、本来自分が目指す大きな方向から外れて時間を過ごす結果となってしまいました。

Aさんと講習業を始め約3年がたったころ、私も正式にインストラクターの資格も取得出来、講習の開催も私一人で運営するまでになっていました。

正直、Aさんにも私をビジネスパートナーにしたことで色々と苦労を掛けたと思います。

Aさんには何度も謝り、相談して来ました。

しかし彼は一度も私を責めること咎めることもありませんでした。20歳も年が離れた私をいちパートナーとして尊敬してくれ、いつも暖かい言葉をかけてくれました。

彼は私を友人だと言ってくれました。これは本当に嬉しい言葉でした。

私達の事業は当初から収益性がかなり厳しいと分かっていました。何とか集客し、採算を合わせる努力のに必死でしたが、やはり想定していた通り事業は赤字の一途をたどります。

私がようやく一人で講習を完結出来るところまで来て、やっと採算ベースが合わせられる可能性が見え、より集客に力を入れようと動いていた矢先、私以外の外国人オーナーから事業撤退を検討したいとう話しが上がりました。

それが昨年春先の話しです。

色々と話し合いました。私もこれ以上大きな金額を個人出資出来ない状況もあり、正直会社閉鎖へ話しは進んでいました。

そんな時、一人のオーナーから会社を買わないかとのオファー。

正直その選択は全く考えていませんでした。

IRATA事業を継続して行きたいという思いはありましたが、会社の状態も良くなく、運営全般のノウハウもなかったので即決することは出来ず、話しはペンディングとさせてもらいました。

ここからです。私のさらなる迷走が始まりましたね~。

何とかしなきゃとと思い、Youtubeセミナーに行ったり、オンラインサロンに入ったりと右往左往しまくることになります。

右往左往したけど、結局会社を買う決断までは出来ませんでした。

秋に入り、とりあえず募集してしまっていた講習を2回ほど開催しました。

そして、12月に私の決断を促すことになる出来事が!

今日はここまでにします。

次回で最終とします。

読んでくれてありがとうございました。

カテゴリー
Uncategorized

そもそも俺はだれ?第3話

高所作業研究室の室長のKENです。

自分の人生の出来事を振り返り書いて来ました。こんなの読む人いるんかいと思いつつ、結構あからさまに出来事を書きました。

不思議な事に読んでくれる人いるんですね~。

他者の出来事に心を寄せる…私は苦手な分野なので、読んで前向きなコメントをしてくれる方達を本当に尊敬します。

私なら思わずひねくれたコメント書いてしまいそ~W

さて、今回は独立からの約4年間の出来事を思い出して行きます。。

起業して3年間は色々とありました。

起業して最初の年には、3名の仲間が増え、その後も2名増員と3年目までに計6名体勢で仕事をすることとなりました。

起業直後で何とか軌道に乗せないとなりふり構わず仕事を受注し進めていました。

結果、もろにはまった落とし穴。

起業して必死の私と働くみんなの間の心持ちの違い。

働くみんなにとっては、会社が起業直後かどうかで不安定かは正直関係なかったのだと思います。

毎日、慣れた仕事をし、ある程度の収入がみえる。これで良かったのだと感じました。

この考えや感覚については否定はしませんが、私自身では未だに腑に落ちるほどの理解が出来ない考え、感覚です。

話しがそれましたが、新しい事や新しい仕事にチャレンジをし続けようとする私と、従業員との考えの違いは、日を重ねるごとに開いて行っていると感じながら毎日を過ごしていました。

当時の私は考えが違うなら違うでしょうがない。辞めたいなら辞めればいいと思いながら、接していたと思います。

当たり前のように、来るべき時は来ます。

小さい会社ではよくある2番手(番頭)の子との決別です。

番頭の子との関係性は元々なんとも言えない複雑さがあったので、色々と解決せずに後回しにしたことが一番の原因でしょう。

辞める事が決まったので、それまでお仕事をだして頂いていた客先に彼を連れて挨拶と事情説明にいき、彼が担当していた現場を彼が勤めるの新しい会社に引き継ぐか、うちで継続して対応するかを決めて頂く相談をして回りました。

結果、一つの部門ごとほぼ彼の新会社に引き継ぐこととし話しが収束に向かいます。

私としては彼と彼に付いていくことを決めた数名の当面の仕事を渡してあげれたので、この退職劇の不安要素は少し減ったと、ほっとしたのを覚えています。

4名が連なるように退社したことについては色々と考えました。

最初は辞めたいなら辞めればいいし、辞める奴が悪いとさえ思って、この退職劇に向き合ってました。

しかし、途中から彼らがやる気をもって楽しく働く環境を作って来れなかった私に大きな非があると感じていました。しかし事はすでに手遅れだったので、少しでも彼らのダメージが減ればと思い動いてました。

何がダメだったのかを色々と悩みましたね~。

しかし、未だにはっきりした答えは出ていません。

ただ、この退職劇を期に私に出来る事、私の役割については精一杯やると決めて動き出したのは間違いないです。

スタイルとしては、「馬を水辺に連れて行くことは出来るが、水を強制的に飲ませることは出来ない。」

水辺に連れて行き、水がおいしいよ!と伝える所までが、「私の仕事」だと決めています。

4期目は2名体勢で新たにスタートすることになりました。

タイミングとは面白いもので、スマートになったらなったなりに面白いチャンスがくるのです。

4期目をスタートしてまもなく、以前の勤め先に在籍時に取得したロープアクセスの海外ライセンス「IRATA」事業に関わるチャンスが巡ってきました。

前職を退職後もIRATA資格の重要性を大事に思っていました。

自身も上のレベルにステップアップし、従業員や外注さん達にも取得をさせて来ました。

自身ではIRATA事業が出来るスキルがなかったので、他の会社が運営しているIRATAトレーニングに参加し継続していました。

まだまだ資格保持者が多い資格ではないですが、初期の頃からかなり熱心にこの資格に関わって来ていた方だと思います。

もちろん、数名かなり懇意にしている人達もいて、一緒に仕事をしたり、トレーニングをしたりとかなり密にお付き合いさせてもらっていました。

このIRATAと資格を日本に持ち混んだのは、オーストラリア人のAさんです。※個人名は出せませんので通称”Aさん”とします。

Aさんは日本でこのライセンスに興味のある会社とコンサル契約を結び、トレーニングのノウハウから、IRATA協会登録会社になるまでのサポートをしてきました。

私の前職の会社が彼のコンサル先第1号でした。数年掛けて会社登録出来るところまでサポートし、晴れて登録が出来たら、次のコンサル先を探すという流れでしたね~。

1社目は無事卒業し、2社目。2社目は関西方面の会社さんでした。

私もこの2社目の会社様にはお世話になり、ステップアップの講習を受けたり、仕事に呼んで頂いて勉強させてもらいました。

2社目の会社様も約3年程度の時間を掛けて無事卒業となりました。

そこでAさんは次のコンサル先を探すか、自身で法人を立ち上げ日本でIRATA事業をやるか模索していました。

場所、費用、人員等の色々と問題があるなかで、私も相談を受ける輪の中にいました。

私は元々不動産の会社で働いていましたので、施設探しなら手伝えるので、物件探しや内見などを手伝うことになりました。

早々に見つからず、しばらく時は過ぎました。

そんなある日、すべての条件を満たす物件が!

内見し、写真と図面を送ると、Aさんはすぐに申込みをしてくれと!

おーおーおー、本人オーストラリアで、日本で法人設立も出来ていないのに~W

まぁ、参りましたよね~。結局法人設立待っていられないので、私がやっている会社でとりあえず借りることとしました。

これが、日本IRATA業界で巻き起こる、私の『大炎上物語』のスタートW

「出る杭は打たれる」。まさしくこの言葉でしたね。

と長くなりました。疲れて来たので次回に持ち越しま~す。

カテゴリー
Uncategorized

そもそも俺はだれ?第2話

高所作業研究室のKENです。

誰にも興味を抱かれない前提で第1話を書いてみました。

不思議なもんで数名の方からコメントを頂き、驚きでしたW

さて、第1話の続きを振り返って行こうと思います。

前回は『うつ病』を煩って、数年間引きずりながら次の転職を決めたところまで行きました。

妻のふとしたひと言から転職を決め、土木系のがっつりガテン系の会社でお世話になる事になりました。

営業は絶対嫌だと伝えての採用だったので、もちろん現場作業員でのスタートです。

ここでお世話になったのは、地盤改良工事や地盤調査をしている会社です。

社長や事務員を入れても10名程度の小さな会社でした。

この会社では一般の木造住宅を新築する際に家が傾かないよう、杭を打つ作業をしていました。

出社初日は土砂降りの雨。

社長と会社で待ち合わせして現場へGo!

右も左も分からない状況でスタート。

長さ4m以上で30kg~40kgある鋼管抱えて運び、立てて重機で地面にねじ込んで行く。

延々と降り続く雨。

現場が終わる頃にはびしょびしょ、どろどろ、ぼろぼろ。

不動産営業でなまった身体には刺激的過ぎる初日でしたね。

完全燃え尽きていたこともあり、社長の運転する帰りの車中寝てしまうという粗相W

会社に戻り片付けをして帰宅。

玄関開けて「ただいま~」の声で出て来たかみさん。

「その格好…どうしたの?W」と、どろどろでぼろぼろの私をみてのひと言でしたね。

シャワーを浴び、食事し、落ちる…

翌朝びっくり!気持ちが超楽!筋肉痛がやばい!

と、私の『うつ病』脱出の出口の光が少し見えた感じでしたね~。

とにかくこの仕事をやり始めて1年は毎日毎日が必死でした。

日に日に体調も良くなり、充実した日々が続いてました。

ふとした時にこの会社の環境を見ていて、自分のやりたい仕事で起業するってのもありだなぁ~と感じました。

これまで、『働く』とはなるべく大きな会社に入り、収入の安定したサラリーマンしか考えた事が無かった。

自分としては新卒で苦労して東証一部上場企業に就職したにもかかわらず、何も考えずに転職、そして病気と転がり落ちている感じで毎日過ごしていました。

しかし、この頃から『働く』事のイメージが少しずつ変わってきていたのだと今になって思います。

話しを戻して。この会社で1年半過ぎた頃、社長から『営業』と『現場作業員』を兼任でやらないかとオファー。

これはマジで悩みました~。

もちろん営業をやることへの不安が第一でした。

この会社にいて感じていた事でもう一つ重要な事がありました。

『役割』です。

私は比較的器用な方だったので、大概の事は自分で何とかなってきたように思います。結果、人との協力関係に重きを置かなくなっていました。

しかし、現場作業をチームで行っていたり、小さい会社で社長から新人の作業員まで全員を俯瞰してみていると色々と気になって来ていました。

みな得意な事や苦手なことが違う、うるさいけど人の輪の中心にいる人、物静かに何も言わないけど常に周りのバックアップをしている人。

特にこの会社の社長に感じていたのは、『社長』と役割・役職を行う人と言う感覚。大きな会社や不動産の仕事をしている時はある意味『社長』は『社長!』と言う感じで、やるべき仕事の役割を示したものではないと思っていましたね。

と言うわけで、この会社での自分の役割を改めて考えた結果このオファーを受ける事にし、『営業』兼『作業員』で新たに動き始める事になりました。

まぁしんどいの一言。日中現場作業を行って、戻ってから設計と見積もり、現場の段取り。ただ不思議とストレスはあまり無かったように思います。

こんな日々を過ごしていると、自身の中で『起業』への興味が少しずつ膨らんで来ていました。

どんな仕事で起業しようかなと、よく考えていましたね~。

とにかくライバルが少なく、ニッチな業種や仕事で起業しようと思っていました。

とある夏休み。長野の山奥で開催されていたアウトドア合宿に参加する機会がありました。

そこで知り合った方に、一緒に山登り等に誘って頂く機会があり、自身でもトレイルランなども趣味としてやりはじめる事になりました。

そんな中で、ロープを使った登山やクライミングがあることを知り、これ~なんか仕事にならないのかと色々調べ始めたのが今の仕事のきっかけです。

調べて行く中で、プロとしてロープ技術を使った仕事があることを知り、いくつかの会社に募集をしているか問い合わせをすることになりました。

この時、すでに32歳。子供3人。という状況。

1社だけ面接をしてくれる会社があり、採用まで至りました。

まぁここで待っていたのは恐ろしい現実。

日給なんと8,000円スタートでその後もほぼ変わらず。

とても日中の仕事だけで家族を食べさせることが出来ないので、夜は居酒屋でバイト。

技術を習得することや仕事の流れを知る為、在籍を続けていましたが3年が過ぎたころ、区切りを付け『独立』の道を選びました。

ひとこと。辞め方が下手でした。

未だにここでお世話になった会社とは疎遠になってしまっています。人とのつながりを絶ってしまう退職はこの時が始めてでしたが、未だに残念に思っています。

狭い業界ですので、どこに行っても私についた悪いイメージはありましたW

まぁ気にしてもしょうがないので、自分のやるべき事をとにかく前に進めるつもりで最初の3年間はやってきました。

独立して4年目に転換期が来ました!

と長くなったので、転換期以降については次回にしようと思います。

カテゴリー
Uncategorized

そもそも俺はだれ?第1話

高所作業研究室室長のKENです。

と、いつも変わらぬ挨拶から始めてますが…そもそもお前はだれ?って思いませんか?

私自身はあまり過去に興味がないので、あまり色々振り返ることはないのですが、そもそも俺はなんなんだと思い。

自分の過去のイベントを整理してみよう!と…

ということで、簡単に人生のストーリー書いていきま~す。

※恐らく興味ない方からするとマジでつまらんと思うので、読むのはここでSTOPしてください。

どこまで遡るかな~。

高校から大学と体育会陸上部で800mという、めっさキツい競技をやっていましたが、ろくな成果は残せませんでした。

分岐点は高3のIH神奈川県予選を通過できんかったところ辺りだなと思います。

マジで勝負弱いのです。

県大会直前に県トップタイムを叩き出し、意気揚々と県大会に出場しましたね~。

1次・2次予選は無事通過したが、帰宅後39度の発熱(笑)

翌日、準決勝はぼろぼろながら何とか通過。

決勝は…ラスト直線で6位、7位争い…競り負けて…関東大会行けずW

当日はかなり凹みましたが、結局笑うしかない結果でしたな。

結局、中途半端にやり残した感を持ちつつ大学進学、そのまま競技は続けたものの、周りの選手はほとんどが高校で全国区の活躍をしたメンバーばかり。

必死についていくが、結局大学2年時に大きな怪我でほぼ競技人生終了。

大してやりたいこと見つからないまま就職活動開始。

2000年3月卒業なので、マジで氷河期。

就職氷河期世代に支援?平均給料を調べたら驚く結果に | 経験者が ...

何とか2社内定を頂き、その内1社に就職する運びとなりました。

最初に就職したのは、内資系製薬会社でした。

医療用医薬品の営業としての採用でしたね。

営業するために、MR(医薬情報担当者)資格が必要なため、本社に約3ヶ月缶詰で勉強。何とか資格を取得し、最初の赴任は…北海道函館市!!

いや~一人暮らしは楽しかったっすね。

函館では渡島半島の半分が自分の担当エリアという広大な敷地を頂き、ドライブ三昧でしたね。

主に回っていたのは、内科、整形外科、眼科ってところです。

ここで今思うと若気の至りだったなぁと言う出来事発生。

同じ病院を担当している他社の営業マンから「うちの会社に来ない?」と声を掛けられテンションMAXで乗っかってしまいました。

と同時に当時付き合っていた彼女と結婚。今のかみさんです。

そして、結婚してすぐにかみさん妊娠。

と、色々と大きなイベントが大量にかなりやる気は満々な状態でしたね~。

さて、意気揚々と外資系大手の製薬会社に転職し、まずは取扱い製品の勉強と製品に関わる病気について社内で講習を繰り返すスタートでした。

と….あることに気づきます。

自分の身体に出ている症状が、いま勉強中の病気の初期症状とまったくもって一致。

まぁ、あれっす。『うつ病』っすね。

ということで、『うつ病』発症!!まずい…転職したばかり、結婚したばかり、かみさん妊娠したばかり…。

あまりに始めたばかりが多い為、会社にも、嫁にも相談出来ず、症状は悪化の一途をたどるばかり。

会社の端末で、自社の営業マンが訪問していない病院を探し、受診し薬を処方してもらうが、全くもって改善傾向なし。

そうこうしてると、人としゃべるのが怖い、病院で医者を待っている時間に冷や汗が止らない…寝れない…。

まぁこの辺まで来ると会社にも妻にも言うしかないっすよね。

覚悟を決めて上司に相談し、3ヶ月の病気休暇を頂き一安心。

と思いきや、安心したのは最初の1週間だけ。その後は、転職したばかりで仕事をしてないこと、結婚したばかりだということ、かみさんのお腹はでかくなって行くこと等々で、休んでいるのも超苦痛。

どうにもなりませんね。

3ヶ月を待って、見切り発車で仕事に復帰。なんだかんだ誤魔化しつつ営業活動を続けるが、瞬く間に悪化W

そして長期休暇。

を数回繰り返すが、子供も生まれてしまっとるし、もう限界。

かみさんと相談し、退社し、一度実家のある横浜に戻ることとなりました。

とまぁ、自分の能力の度合いを見誤った、自業自得の展開となりました。

この時、年は26歳を迎えるタイミングでした。

子供とかみさんを連れ、実家に戻りしばらく静養させてもらいました。

と言っても、仕事辞めとるし、いつもまでも働かん訳にはいかんと言うことで、再就職先を求めて就職活動再開。

従前と同じ業界だと家族も心配の様だったので、別業種で探すこととなりました。

就職出来たのは『不動産』会社。

電鉄系の比較的硬い感じの不動産会社に就職し、不動産売買の営業をスタート。

6月に入社し、「11月位に『宅建』の試験あるから資格とってね。」と上司は言う。

『はい』と言うしかないですよね。

で、資格取りました。

すごい営業成績を上げるわけでもなく、とりあえず家族を養える程度の仕事を続けながら毎日過ごしてました。

と言うのも、仕事に復帰したものの、いまいち精神状態はあまり良くない状態が続いていました。

自分が壊れない程度に働いていましたが、この状態でいいのかはかなり悩んでましたね~。

3年ほどたったある日、かみさんがこんなのあったよと持ってきたのは、いまは無き『ガテン』という、職人系求人のフリーペーパーでした。

「営業じゃなくて身体動かす仕事してみれば~」とかみさんに言われ、ほうほうほうと思わず手に取ってしまいました。

これ考えると、うちのかみさん強いっす。よく考えりゃこの時点で2児の母ですもん。母は強いっすね。

と、不動産の営業に行き詰まりを感じていた私は試しに面接だけ受けてみようと、とある会社に問い合わせ。

面接時に色々と事情はお話ししたのに何故か採用の連絡W

これは縁だ!と思い、周りの方にご迷惑が係らぬよう転職の準備を進め、2ヶ月後位に整理をつけ転職しました。

この時点で3回目の転職Wそれも全く違う業種W

次に行く会社が今の私に大きく繋がっているので、ここから先は次回にします。

書いてて不思議。自分の過去を書いてみようと思って書き出すと色々と思い出すもんだなぁ~と。

それではまた次回お会いしましょう!! adieu

カテゴリー
Uncategorized

『ロープ高所作業』と『墜落制止用器具』

高所作業研究室のKENです。

今回は『ロープ高所作業』と『墜落制止用器具』の関連性等について書いていきます。

『墜落制止用器具』についてまだ詳しく書いてはいませんが、今回はこの二つの法律の関係性でよく受ける質問について整理して行きます。

良く出る質問はいくつかありますが、下記の通りです。

①『ロープ高所作業』をするのに「フルハーネス:墜落制止用器具」を着用しなくてはならないのですか?

②『ロープ高所作業』をするのに「墜落制止用器具特別教育」は必要ですか?

③海外メーカーのハーネスやランヤードは使っても大丈夫ですか?

こんなところで中心でしょうか…。

え~、とりあえず一言。自分の命が係っている仕事なんでちゃんと自分で調べて下さい!

質問者の多くは得てして、何も調べず聞いてきます。私からすると上記の問題は究極的にはどうでもいいことで、自分で調べてこれが最大限の安全が担保できると判断して作業を行うことが本質的には重要です。

別で書きましたが、法律はあなたの命を守ってはくれません。何をするにも高所作業の安全を担保するには最終的には自己責任で“決定”と“実行”を繰り返すしかないのです。

話しがそれました。戻しますね。

①『ロープ高所作業』をするのに「フルハーネス:墜落制止用器具」を着用しなくてはならないのですか?

原則、フルボディハーネスの着用が必要となります。法律文面の解釈だと6.75m以下については、“胴ベルトタイプの墜落制止用器具“でも良いとなっていますが、6.75m以下のみでロープ作業を行う事は現実的にはフルボディハーネスの着用と考えた方がいいでしょう。

ただし、その他の質問でも同様ですが、現在は『墜落制止用器具』施行後の経過措置期間中ですので、旧規格の『安全帯』を使用している方については上記の規定外と考え、従前の『安全帯』規格の法律に乗っ取った作業であればよいとされています。

②『ロープ高所作業』をするのに「墜落制止用器具特別教育」は必要ですか?

『墜落制止用器具』の法律では、3要件が揃う作業を作業員に実施させる場合、『特別教育』を必要としています。

3要件とは

1.高さ2m以上の箇所で

2.作業床を設ける事が困難な場合で

3.フルハーネス型を使用させる

です。

しかし、この規定の最後に括弧書きで(ロープ高所作業は除く)とあります。

ですので、仮に『ロープ高所作業』でフルハーネス型を使用する場合でも『特別教育』は必要ないと考えます。

では本当に必要ないでしょうか?

高所作業は大きく分けて3つの作業形態に分かれます。

1.レストレイント

2.フォールアレスト

3.ワークポジショニング(ロープアクセス含む)

この3つの形態の特徴や注意事項については別のブログで書きます。

今回、『墜落制止用器具』の法律で規制したのは『フォールアレスト』の作業になります。

ここで、ご自身の日々の作業をよく思い出して下さい。

作業の一例は下記の通り。

フェンスに囲われた屋上。

フェンスに囲われているのでその中にいれば基本的に墜落の心配はないですね。この場合特に安全対策は必要ありません。

ロープを吊り元に結びつけ、自分が降りたい場所にロープを下ろして行く。

この時あなたはどこにいますか?

この時点でフェンスの外に出ているのであれば、それはすでにフォールアレストの作業となります。屋上の縁から墜落出来ないように作業制限をしているのであればレストレインかもしれません。

次に垂らしたロープにバックアップディバイスと下降器具を取付け、屋上から外壁側に乗り込みます。

これも乗り込みが終わり、完全にロープにぶら下がるまではフォールアレストの作業となります。

このように、『ロープ高所作業』をする場合に『ロープ高所作業』のみ行う事は少なく、レストレイン↔フォールアレスト↔ワークポジショニングと作業は状況に応じて変化していきます。

この作業の変化を考えると、仮に『ロープ高所業』を行う場合であっても、『墜落制止用器具』の特別教育は必要なのでは?というのが私の考えです。

垂らしたロープを下から登り、そのまま降りてくるだけの作業であれば『ロープ高所作業』のみと考えられますが、多くの作業者がこれに該当しないと思います。

③海外メーカーのハーネスやランヤードは使っても大丈夫ですか?

以前よりこの質問はよく出ていました。

旧安全帯には『特殊な構造の安全帯』という項目がありました。しかし、この規定で『特殊な構造の安全帯』として使うためには“厚生労働省労働基準局長”が同等以上の性能、効力を有すると認めたものとされておりました。

これはいちユーザーが行うことではなく、本来はメーカー再度が動くべき内容でしたが、どの海外メーカーもこの作業には着手することはありませんでした。

今回の法改正ではどうでしょうか?

『墜落制止用器具』の法律文面にも、ほぼ同様の文面が第10条に書かれています。

第10条 特殊な構造の墜落制止用器具又は国際規格等に基づき製造された墜落制止用器具であって、厚生労働省労働基準局長が第三条から前条までの規定に適合するものと同等以上の性能又は効力を有すると認めたものについては、この告示の関係規定は、適用しない

この規定に基づく動きは各メーカーともしませんでした。

いくつかのメーカーが行った作業は、すでに海外の規格を通している商品が日本の規格に適合しているのか、強度規定や実験方法等の確認作業を行うことでした。

結果として、『墜落制止用器具』の規格規定に足りうる内容を確認できたとして、会社として適合宣言を出し、対象の商品についらく『墜落制止用器具』規格“適合”のラベル等を貼付し出荷するに至りました。

日本のハーネスは欧米の規格と異なり、第3者機関の検定等が必要ないため、会社で適合の判断を行うことで規格適合をうたうことが出来るルールとなっているためです。

今は

Petzl社、CAMP社、singing lock社等が国内法に適合しているとして、ハーネスやフォールアレストランヤードを『墜落制止用器具』として販売しています。

よって、この適合宣言をしている商品については規格適合品として国内メーカー製造の商品同様に使用可能と言うことになります。

私の結論

確かに法律上は何をしなくてはならないかが規定されています。しかし、現在の日本の高所作業を取り巻く法律は施行されたばかりか、尋常じゃなく古いか、のどちらかになります。

自分の命は自分でしっかり守りましょう!

余談

『墜落制止用器具』の法改正で、ようやく国際標準に法律水準を合わせる動きをしましたが、結局日本独自の風習やメーカー再度の都合(出荷本数など)が含みおかれたという法改正になってしまったのだと思います。

有識者会議の参加者がどういった経歴なのかまでははっきりわかりませんが、少なくとも欧米からの経験豊富な見識者が招かれた様子はないように思えます。

先般とある、有名な安全教育を行う協会のリスクアセスメント講習に参加しました。いくつか不明な点を質問しましたが、不明確な回答が多い。休憩中に食い下がって質問したところ、講師の回答はなんと…

「現場に行った経験はないので、現場のことを聞かれてもわからない(怒)」

とある、墜落制止用器具特別教育の講習では主催者の担当者が100人近い受講者に向けての開始のあいさつで…

「おはようございます!皆さんお疲れですし、一日眠いと思いますが、頑張って寝ないでいただければ、一生使える修了カードをお渡しできます!寝ないよう頑張ってください!」

ガンバレルーヤ よしこさん的に言うなら…

『クソがっ!』